結城理仁はロールスロイスに乗ると、低い声で指示を出した。「俺が新しく買ったあのホンダの車を運転して来てくれ」 あれは妻を騙すために買った車だ。その妻の名前は何と言ったっけ? 「そうだ、あの嫁の名前は何といったか?」 結城理仁は結婚証明書類を取り出して確認するのも面倒くさかったのだ。いや、あれはおばあさんに見せた時に手渡したままだった。どのみち彼は、あの書類を持っていなかった。 ボディーガード「......若奥様のお名前は内海唯花様です。今年二十五歳だそうです。若旦那様覚えていてくださいね」 彼らの坊ちゃんの記憶力は特に優れていたのだが、覚えたくない人の名前はどうやっても覚えられないようだった。 特に女性は毎日会っていて坊ちゃんは誰が誰なのか覚えられないだろう。 「ああ、わかった」 結城理仁は一声言った。 ボディーガードは彼のその話しぶりから、次も新しく来た嫁の名前を覚えていないだろうことが読み取れた。 結城理仁は内海唯花のことを考えるのはここまでにして、椅子にもたれかかり、目を閉じてリラックスして体と心を休めることにした。 スカイロイヤルホテル東京からトキワ・フラワーガーデンまでは十分ほどだった。 高級車はトキワ・フラワーガーデンの入口で止め、結城理仁は自らあのホンダ車を運転して自分の家まで運転していった。 新妻の名前は覚えられないくせに、自分が買った家は覚えられるのだ。 すぐに自分の家の玄関に着いた。ドアの外に見慣れた自分のスリッパを見つけた。これは彼のスリッパじゃないか? どうして外に出されている? 当然内海唯花の仕業に決まっている! 結城理仁の目つきは冷たくなり、整った顔がこわばった。本来はあの祖母を助けてくれた女性にとても感謝していたのだが、祖母が彼女をベタ褒めし、彼と結婚するように仕向けられて彼は内海唯花に対して好感はなくしてしまっていた。 内海唯花の腹の内は分からないと思っていた。 最終的にはおばあさんの言うとおりに内海唯花と結婚したわけだが、おばあさんにはこう伝えてある。結婚した後は彼の正体は隠したまま、内海唯花の人柄を観察し、内海唯花が結婚するに値する人物であるなら、本当の夫婦として一生を共にすると。 もし彼が内海唯花が何かを企んでいるような腹黒女であると判断したなら、彼
結城理仁は自分のスタイルに気をつけていたから、暴飲暴食して太るのは許せないのだ。 ダイエットして体重を落とすのは大変だ。 内海唯花は微笑んで言った。「結城さんはスタイルが良いですよね」 「じゃあ、私は部屋に戻って寝ますね」 結城理仁はそれにひと言返事をした。 「おやすみなさい」 内海唯花は彼におやすみの挨拶をすると、後ろを向いて部屋へと戻ろうとした。 「待て、内海、内海唯花」 結城理仁は彼女を呼び止めた。 内海唯花は振り向いて尋ねた。「何か用ですか?」 結城理仁は彼女を見てこう言った。「今後はパジャマのまま出てこないでくれ」 彼女はパジャマの下に下着をつけていなかった。彼は目が良いので見ていいもの悪いもの全てが見えてしまうのだ。 彼らは夫婦だから彼が見るのはいいとして、万が一誰か他の人だったら? 彼はなんといっても自分の妻の体が他の男に見られるのは嫌なのだ。 内海唯花は顔を赤くし、急いで自分の部屋に戻ると、バンッと音をたててドアを閉めた。 結城理仁「......」 彼は気まずいとは思っていなかったが、彼女のほうは恥ずかしかったらしい。 少し座ってから、結城理仁は自分の部屋に戻った。この家は臨時で購入したもので、高級な内装がしてある家だ。ただすぐに住める部屋ならどこでも良かったのだ。 しかし、あまりに忙しくて彼の部屋も片付けられていなかった。 彼は内海唯花が物分りが良いことにはとても満足した。ずうずうしくも彼と同じ部屋で寝ようとはしなかったからだ。 さらに彼に夫としての責任も要求してこなかった。 それからの残りの夜は、夫婦二人何のいざこざもなく過ごせた。 次の日、内海唯花はいつもどおりに朝六時に起床した。 これまで、彼女は朝起きるとまず朝食を用意して、家の片付けをしていた。時間に余裕がある時は、姉を手伝って洗濯物を干していた。彼女が姉の家に住んでいた数年は家政婦のようなことをしていたと言ってもいい。ただ姉の負担を減らしたいがためにしていたことだったのだが、義兄の目にはやって当然のことだと映っていたのだろう。彼女を家政婦同然と見て使っていたのだ。 この日起きて、まだ見慣れない部屋を見回し、頭の中の記憶部屋で整理して内海唯花は一言つぶやいた。「私ったら、寝ぼけちゃってるわ、まだ
食事を終えると、結城理仁は財布を取り出し、開けて中を見てみた。現金はあまり入っておらず、彼は銀行のキャッシュカードを取り出し内海唯花の前に置いた。 内海唯花は眉をピクリと動かし彼を見つめた。 「何か買うなら金が必要だろう。このカードは君に渡しておくよ、暗証番号は......」 彼は紙とペンを探し、暗証番号を紙の上に書いて内海唯花に手渡した。 「今後はこのカードの中の金を家の金と思って使ってくれていい。毎月給料が支払われたら君のカードに送金する。今後買ったものは記録でもつけといてくれ。俺は君がいくら使おうと構わない。だが、何に使ったのかは把握しておきたいんだ」 結婚手続きを終えた時に内海唯花は彼に尋ねた。夫婦間で出費を半々に負担する必要はないと言っていた。結婚して夫婦になり家族になったのだ。彼は彼女が金を使うのは全く気にしていなかった。 どのみち彼自身もいくら金があるのかなど把握していなかった。一家の財産が、一体正確にいくらあるのか全く知らないのだ。普段会社で忙しく働きお金を使う暇もなかった。だから、妻一人くらい養うことは、彼にとっては少しお金を使う機会を得たくらいのものだった。 しかし彼も都合のいいカモになるつもりなど毛頭なかった。彼の中では内海唯花は腹黒女なのだから、用心するに越したことはないのだ。 ただ彼女がこの家にお金を使うなら、彼女の好きにしたらいい。彼は全くそれについては意見はなかった。 内海唯花は結城理仁のこのような態度とやり方が気に食わなかった。 彼女はキャッシュカードと暗証番号が書かれた紙を一緒に彼に突き返した。暗証番号すら一度も見なかった。 「結城さん、この家はあなた一人で住んでいるんじゃなくて、私も一緒に住んでいます。家を買ったのはあなたです。私も同居して外で部屋を借りる家賃は必要なくなりました。この家の出費を、またあなた一人に負担させるわけにはいかないですよ。家に必要な物のお金は私が出します」 「四万円を超える場合は相談させていただきます。あなたは少し出してくれるだけで結構です」 彼女の収入も決して少なくないので、家庭における日常の出費は全く問題なかった。少しお金がかかるもの以外は、彼にお金を出してもらう必要はないのだ。 彼にお金を出してもらう分には抵抗はなかったのだが、問題は彼の内海唯花
内海唯花は予定通りに姉の家へ行った。家に着くと、姉はもうとっくに起きていて台所で忙しなく家事をしていた。「お姉ちゃん」「唯花ちゃん、あがって、あがって」台所から出てきた佐々木唯月は妹の顔を見て、嬉しそうに「もう食べたの?お姉ちゃん今素麺作ってるの、一緒に食べる?」と聞いた。「ううん、いいよ、もう食べたから。そういえば、朝食買ってきたよ、素麺はもう鍋に入れたの?まだだったら、陽ちゃんと一緒にこれを食べて」「まだよ、ちょうどよかったわ。実はね、昨日陽が熱出しちゃって、一晩中ずっと看病してやってて全然眠れなかったの。だから今朝起きるのが遅くなって、お義兄さんも外で朝を食べたのよ。毎日家にいて何もしてないくせに、子育てだけでぐったりして、朝ごはんすら作ってくれないって彼に散々言われたわ」佐々木唯月は少し悔しそうにしていた。それを聞いた内海唯花は腹を立てて言った。「陽ちゃんどうして熱が出たの?今熱がなくても、後で病院に連れて行ってあげてね。そうしないとまた拗らせて繰り返すわよ。義兄さんも義兄さんで、子供が病気なのに、全く手伝ってくれないうえに、お姉ちゃんを叱ったりするなんて一体どういうことよ」 「お姉ちゃん、私今もうこの家から出て行ったのよ。義兄さんはまだ生活費の半分をお姉ちゃんに押し付けてる?」 ソファに腰をかけた佐々木唯月は妹が持ってきたうどんを出し、食べながら言った。「後で陽をお医者さんのところに連れていってくるわ。生活費なら、やっぱり私と半々で負担してるよ。彼は私が毎日ただお金を使っているだけで、どうやってお金を稼ぐかも、彼がどれだけプレッシャーを受けているのかも知らないって言うの。まあ、私もこの家の一員である以上、少しくらい負担しないとね」 「きっと彼の姉さんが言ったことよ。あの義姉さんはお嫁に行っても、まだ実家のことばかり気にしているの。以前義兄さんは私によくしてくれてたのに、あの義姉さんのせいで......」実は佐々木唯月は会社を辞める前にもう財務部長までにのぼっていて、かなりの給料をもらえていたが、愛のため、結婚のために色々なものを犠牲にしてここまで来たのだ。それなのに、最後に得られたのは夫の家族からの悪口だけだった。 彼女がお金を使っても、全部この家ために使っていることだ。久しぶりに自分の服を買うのにも、妹
「行こう」結城理仁は心の中で内海唯花に小言を呟いたが、直接彼女に何か言ったりしたりはしなかった。内海唯花は彼の妻だが、名義上だけだ。お互いに見知らぬ人と変わらなかった。運転手は何も言えず、また車を出した。一方、内海唯花は夫の高級車にぶつかりそうになったことを全く知らず、電動バイクに乗ってまっすぐ店に戻った。牧野明凛の家は近くにあるので、彼女はいつも内海唯花より先に店に着いていた。「唯花」牧野明凛は店の準備が終わってから、買ってきた朝食を食べていた。親友が来たのを見て、微笑んで尋ねた。「朝もう食べたの」「食べたよ」牧野明凛は頷き、また自分の朝食を食べ始めた。「そういえば、おいしいお菓子を持ってきたよ、食べてみてね」牧野明凛は袋をレジの上に置き、親友に言った。電動バイクの鍵もレジに置くと、内海唯花は椅子に腰をかけ、遠慮なくその袋を取りながら言った。「デザートなら何でも美味しいと思うよ。あのね、明凛、聞いて。ここに来る途中で、ロールスロイスを見かけたよ」 牧野明凛はまた頷いた。「そう?東京でロールスロイスを見かけるのは別に大したことじゃないけど、珍しいね。乗っている人を見た?小説によくあるでしょ、イケメンの社長様、しかも未婚なんだ。そのような人じゃない?」内海唯花はただ黙って彼女を見つめた。にやにやと牧野明凛が笑った。「ただの好奇心だよ。小説の中には若くてハンサムなお金持ち社長ばかりなのに、どうして私たちは出会えないわけ?」「小説ってそもそも皆の嗜好に合わせて作られたものでしょ。どこにでもいるフリーターの生活を書いたら誰が読むのよ、まったく。社長じゃなくても、せめてさまざまな分野のエリートの物語じゃないとね」それを聞いた牧野明凛はまた笑いだした。「そうだ。唯花、今晩あいてる?」「私は毎日店から家まで行ったり来たりする生活をしてるだけだから暇だよ、何?」内海唯花の生活はいたってシンプルだった。店のこと以外は、姉の子供の世話だけだった。「今晩パーティーがあるんだ。つまり上流階級の宴会ってやつなんだけど、一応席を取ったから、一緒に見に行きましょ!」内海唯花は本能的に拒絶した。「私のいる世界と全く違うから、あんまり行きたくない」 確かに月収は悪くないのだが、上流階級の世界とは次元が違うので、全
パーティーが開かれた場所はスカイロイヤルホテル東京だった。普段なら内海唯花とは縁のない所だった。スカイロイヤルホテル東京は市内の最高級ホテルの一つとして、七つ星ホテルと言われているが、果たして本当にそうなのかどうか、内海唯花は知らなかったし、個人的に興味もなかった。内海唯花たちより先にホテルに着いた牧野のおばさんは知り合いの奥さんたちと挨拶を交わした後、息子と娘を先にホテルに入らせて、玄関で姪っ子が来るのを待っていた。姪っ子を迎えに行かせた車が他の車の後ろについてゆっくり到着したのを見て、彼女の顔に笑みが浮かんだ。すると、牧野明凛は海内唯花を連れておばさんの前にやってきた。「おばさん」「おばさん、こんばんは」海内唯花は親友と一緒に挨拶をした。 姪っ子が内海唯花を連れて来ることを知った牧野のおばさんは、少し気になっていた。実際に彼女に会ったことがあるからこそ、この両親を失った娘が自分の姪っ子より美人であることを認めなければならなかった。いたって普通の家庭出身なのに、顔立ちと仕草にはどこかお嬢様の気品が漂っていた。彼女と一緒だと、姪っ子の美しさが霞んでしまうのではないかと心配していたが、もう結婚していると義姉から聞いて、一安心した。目の前の内海唯花をよく見ると、彼女はドレスすら着ていなかった。普段着に薄化粧しているだけで、高いアクセサリーもつけていなかった。彼女のその生まれつきの美しさもおしゃれした姪っ子の前では覆い隠されてしまい、牧野のおばさんはやっと安心して頷いた。内海唯花は本当によく気の利く、物分りがいい娘だと思った。「よく来たね。私が連れて行ってあげるわ。明凛、招待状を出しておいてね。中に入るのに必要なんだ。チェックしないと」牧野明凛は慌てて自分の招待状を出した。「中に入ったら言葉には気をつけるのよ。ちゃんと見てちゃんと聞くの。頃合いを見計らって紹介してあげるわ。唯花ちゃん、あなたは明凛より大人だから、彼女が何かやらかさないように見張ってちょうだいね。お願いするわよ。スカイロイヤルホテル東京はここの社長が管理しているホテルの中の一つなの。その家のお坊ちゃんたちも今夜のパーティーに顔を出すかもしれないわ」牧野のおばさんはこっそりと姪っ子に言った。「明凛、もしあなたがここの御曹司のご機嫌を取ることができたら、牧
結城理仁は大勢の人に囲まれて入ってきて、隅っこに隠れていた新妻がいることに全く気付かなかった。内海唯花も同様、人垣をかき分けて自分の夫を見るすべもなかった。 暫く背伸びして眺めていたが、当事者の姿が全然見えないと、すっかり興味を失ったように椅子に座り直して、親友を引っ張りながら言った。「どうせ見えないから、見なくてもいいよ。食べましょ」彼女にとって、今晩ここに来た一番重要な課題は食べることだから。「唯花、ここでちょっと待ってて、さっき誰が来たのか、ちょっとおばさんに聞いてくる。こんなに大勢が集まるって、まるで皇帝のご帰還じゃないの」内海唯花は適当に「うん」と相槌した。牧野明凛は一人でその場を離れた。 取ってきたものを全部食べ終わった内海唯花は空になった皿を持って立ち上がった。みんなが偉い人の所へ行っているうちに、自分は簡単に食べ物が取れて、他人の異様な視線も気にしなくてよかったのだ。結城理仁は入ってくると、まず今夜のパーティーを主催した社長と世間話をしていた。周りのボディーガード達はしっかり周囲の動きに注意を払っていた。なぜなら、この若旦那は女が近づいてくるのを好まなかったからだ。毎回こういう場面で彼らがいつも付いていくのは、不埒なことを考える人から若旦那を守るためだった。名高いボディーガードの身長も高いので、視線も他人より高く、遠くまで見える。本能的に会場を見回していると、女主人の姿を見たような気がした。結城理仁は正体を隠して海内唯花と結婚したのだが、周りのボディーガードは彼女のことを知っていた。そのため、最も内海唯花を知るのは結城おばあさんを除けば、このボディーガード達だった。内海唯花を見たボディーガードは最初、自分の見間違いだと思って、目を凝らしていたが、やっぱりその人は女主人様じゃないか。彼女は自分の夫が来てもかまわず、二つの皿を持ちながら、自分の好きなものを楽しく選んでいた。やがて、お皿が二つともいっぱいになると、その二皿分の料理を持ち、人に気づかれにくい隅っこのテーブルへ行った。 そして、何事もなかったかのように、食事を楽しんでいた。 ボディーガードは無言になった。「......」結城理仁が何人かの顔見知りの社長たちと話を済ませた後、そのボディーガードは隙を見て彼の傍へ来て、小声で報告した。「若
牧野明凛はグラスを口元まで持ち上げて、ワインを一口飲んだ。「小説の読みすぎじゃない?同名同姓の人なんかそこら辺にたくさんいるわよ。同姓というなら、京都の有名な大金持ちの苗字は鈴木だよ、世の中の鈴木さんは全部彼の親戚というわけ?」牧野明凛は笑った。「それもそうだね」「うちのはただのサラリーマンで、持ってる車も250万ぐらいのホンダ車よ。結城家の御曹司もそういう車にするの?もう、考えすぎだよ」内海唯花は玉の輿なんて考えたこともなかった。夢を見るのはいいのだが、見すぎるのはよくないと思っていた。「ところで、結城家の御曹司って、そんなに女性のことを拒絶してて、ホモなんじゃ?結婚してるの?」内海唯花はそのお坊ちゃんの顔には興味なかったが、彼がそんなに女性の接近を拒絶しているのは、高潔であるか、あるいは何か問題があるか、アッチ系なのかもしれないと思っていた。「結婚の話は聞いたことないわね。私たちは庶民とはいえ、結城家の当主が結婚したら、東京中、絶対大騒ぎになるよ。ネットといい、新聞といい、彼の結婚のニュースでもちきりになるわよ。それがないってことはつまりまだ独身だってことでしょ」牧野明凛はグラスを置いた。「そうだね、何か問題があるかもしれないよね。だって、そんなに立派な男性なら、恋人がいないなんておかしいわよ」「お金持ちの考えなんて、私たちには一生わからないかもよ。もう、食べましょうよ。食べ終わったらさっさと帰りましょ」「うん」と牧野明凛が答えてから、二人はまた遠慮なくご馳走を楽しんだ。多くの人が二人のことを見た。ある人はすぐ目をそらしたが、またある人は嫌そうな顔をして、あざ笑った。どこかのご令嬢が若い使用人を連れてきて、今までろくなものを食べたことがないみたいに、一晩中ずっと隅っこで飲み食いしているなんて、はしたない。それにしても、この二人よく食べたね!「明凛姉さん」牧野のおばさんの息子である金城琉生が近づいてきた。彼は牧野明凛より三歳年下で、幼いころから仲のよかった従弟だ。親に付き合って一週挨拶回りした後、母親は突然従姉の明凛のことを思い出すと、彼に頼んで探させた。「琉生、こっちに座って」牧野明凛は椅子を引いて、従弟を座らせた。内海唯花が笑顔を見せると、金城琉生は顔を少し赤く染めて、彼女にグラスをあげ、
「義姉さんは離婚したばかりで、仕事もそこまで安定してないだろう。家を借りるなら、俺たちが先に礼金や敷金を立て替えてあげよう」実は理仁は義姉である唯月たち親子に一軒家をプレゼントしたいと思っていた。唯月は妻の家族の中で最も親しい存在だから、彼女を適当に扱いたくなかった。しかし、今はそうすることができないのだ。この姉妹の性格を考えると、たとえ彼がプレゼントしようとしても、義姉はきっと受け取らないだろう。「お姉ちゃんは佐々木俊介から二千万くらいもらえるから、絶対そんなことなんてさせてくれないよ」姉妹二人は小さい頃からお互いに支え合ってここまできたが、これを当たり前のことだとは決して思っていない。姉妹二人はどちらも一方的に相手に甘えて、全く努力しないのではなく、本当の意味でお互いに支え合っているのだ。理仁はこれ以上何も言わなかった。間もなく、彼らは結城グループに戻った。理仁は車を止めて、彼女のほうへ視線を向けた。唯花も彼を見つめて、笑いながら尋ねた。「会社に着いたよ、まだ行かないの?こうやって私を見つめてどうするの?」理仁はただ彼女を見つめていた。唯花はしばらく考えてから身を乗り出して、彼の首に腕を回し、彼を引き寄せて、その唇に軽くキスをした。理仁はこんな子供のようなキスでは満足せず、逆に主導権を奪い、甘いディープキスを返してきた。そしてようやく離れると、理仁は名残惜しそうに車を降りた。夫婦二人の感情はまだ上昇期であった。恋をした経験のない理仁は本音を言うと、金魚のフンみたいにずっと唯花の後ろについて一刻も離れたくなかった。残念なことに、彼は金魚のフンにはどう頑張ってもなれないのだ。「今日はもう店を閉めただろう。だったらこのまま家に帰ってゆっくり休んで」「まだ作り終わってないハンドメイドが残ってるから、店に帰ってそれを作るの。それに、夕方になるとまたお客さんが来るかもしれないし」最近では期末試験が迫っていて、文具と本を買う学生も増えていた。冬休み前になると、多くの高校生たちが自分で冬休み用の練習問題を買う。唯花の店にはそのようなドリル集が置いてあるので、よくこの時期に店に来るのだ。店を開けないと、お客さんが他の店に取られてしまい、彼女は多くの損をするのだ。理仁「……」「わかったよ、自分の
さっき大勢の人が一気に出てきたので、唯花はホテルにこっそり戻った七瀬のことに気づかなかった。傍にいる彼女のことを心配していて、寒く感じた時に温めてくれた男が、実はトップクラスの演技派俳優にも引けを取らない男だとは全く知らなかった。彼女は理仁に言った。「さっきお姉ちゃんから電話してきたの、佐々木俊介と離婚条件についてじっくり話し合ったって」「どうだった?」「佐々木俊介の名義の財産をお姉ちゃんに半分分けることになったって。家や車なら全部彼にあげてもいいけど、補償としてまた別にお金を払ってもらわなくちゃ。陽ちゃんの親権はお姉ちゃんに渡ることになったわ。代わりに、相手は毎月陽ちゃんに六万円の養育費を送ってくるの。彼の要求は彼に不利な証拠を何も残さず全部渡すこと。そしてお姉ちゃんが離婚後、これ以上は彼に復讐しないこと」理仁はまた尋ねた。「じゃ、義姉さんは何と言ったの?」「全部承諾したよ、でも、お姉ちゃんはただ個人的には彼に復讐しないって約束したの。お姉ちゃんは私たちに横から手を出すチャンスを残してくれたのね」唯花は言った。「私は彼が仕事がだめになって、何もかも失うのを心から望んでいるの。できれば、あの成瀬とかいう女と結婚してから、一気に全部を失うのが一番よ。彼にお金が無くなって、二人で貧乏夫婦になったら、成瀬莉奈と変わらず今のようにラブラブできるかしら?それに、彼の両親と姉もクズなのよ。成瀬はお姉ちゃんほどお人好しじゃなさそうよ。もし何かで揉めて大喧嘩になったら、はは、それこそ面白いじゃない」唯花は何があってもクズの元義兄の一家が大変な目に遭うのを願っていた。「お姉ちゃんが離婚した後、以前のような自信ときれいなスタイルを取り戻したらいいわ。そして、本当に素敵な男性に出会うの。その二人目の彼がお姉ちゃんを溺愛して、二人で幸せな生活を送るといいのよ。そうしたら、きっと佐々木俊介を後悔させられる!あの最低な一家全員が後悔しても取り戻せないのが一番よ」理仁はその言葉に続いて言った。「義姉さんはきっと君の望んだ通りに幸せな生活を手に入れるよ。それから、義姉さんはもう痩せ始めているんだ。気づいた?」「気づいてるよ、でもまだはっきりした変化はないわね」最近いろいろなことが起こりすぎて、姉が痩せ始めるのも当然のことだ。唯花は姉が
ちゃんと演技すれば、うまくごまかせるはずだ。「悟、辰巳、お客様と一緒に先に会社へ戻っていてくれ。俺は妻とちょっと話してくる」理仁は声を低くして二人に言ってから、大股で堂々と唯花に近づいた。ボティーガード達はもちろんついて行けないのだ。「結城社長の知り合いなんですか」顧客たちは訝しそうに理仁が知らない女性に近づいていくのを見ていた。結城社長といったら、家族以外の若い女性が彼の三メートル以内に近づくことを許さないんじゃなかったか?「ええ、知り合いですよ」悟は笑いながら、先頭に立って顧客を彼らの車のほうへと案内した。悟がそれ以上話す気がないのに気づき、彼らは深く聞くのをやめた。「唯花さん」理仁は唯花の前にやってきて、両手を伸ばして彼女のコートを整えてあげながら尋ねた。「どうしてここにいるの?俺がここで顧客と商談しているのを知っていて、わざわざここで待っててくれた?」雨は昼になるとすっかり止んだ。それでも結構寒かった。唯花はスーツを着た男たちが車に乗り、次々と去っていくのを見て、笑いながら尋ねた。「あの人たちは会社の同僚なの?今日は偶然ここで神崎夫人と姫華にご馳走してあげたの。理仁さんに会えるとは思わなかったよ」理仁は遠ざかっていく数台の高級車を見送りながら説明した。「うん、会社の同僚だね。今日会った顧客は皆大手企業の社長様で、うちの会社を重視しているから、たくさん人を同行させてきたんだ。神崎夫人は?」「旦那さんから電話がかかってきたから、姫華と先に帰ったよ。理仁さん、私は神崎夫人とDNA鑑定をしたの。数日後、結果が出るみたい」理仁の黒い瞳に何とも言えない感情が浮かんできたが、顔には全く出ていなかった。彼は優しい声で言った。「結果ができるまでとりあえず待とう。今は何事もなかったように普段通りにしよう」唯花はため息ついた。「平気で何もなかったようにするのは無理だよ。最初は、姫華に私がお金目当てで関係作りをしようとしているんじゃないかって誤解されるのを心配していたけど、今はまた別の意味で複雑な気持ちになったの。お母さん……お母さんがもし、まだ生きていたらどれほどよかったのか」理仁は手を伸ばし彼女の肩を抱き、彼女の車のほうへエスコートしながら言った。「お義母さんはもういないけど、神崎夫人がもし
唯月は多く考えず、無意識に頷いた。「数日休暇を取りました。息子の陽が大変な目に遭いましたから、傍にいてあげないといけなくて」「じゃ、ここで何をしているんだ?息子さんは?」唯月「……」彼女は本当のことを言うべきだろうか。隼翔はきょろきょろと周りを見回したが、あの可愛くて元気な男の子の姿は見つからなかった。しかし、あの子は彼を怖がっているようだ。彼に会うたびに唯月の懐に顔を埋めて、まるで彼が顔の怖い悪魔だと思っているかのようだった。「陽は家で昼寝をしています。ベビーシッターさんが面倒を見てくれていますから。私は用事で一人でここに来たわけです」隼翔は「ああ」と言い、また彼女に尋ねた。「用事って、何かあったの?」それを聞いた唯月は、言うべきかどうかためらっていると、隼翔は笑って言った。「言いにくいことなら言わなくてもいい。ただ通りがかりにちょうど君を見つけて、今日会社を休んだのを思い出したから、ちょっと聞いただけだ。まだ用事は終わってないんだろう。じゃ俺は先に行くよ」隼翔は唯月のバイクのヘッドに置いていた大きな手を離し、ためらわず身を翻して去っていた。「東社長、お気をつけて」唯月がそう言うと、隼翔は振り返らず、手をあげて「じゃあな」というジェスチャーをしてくれた。二人はそれぞれの車に乗り、その場を離れた。ホテルでは、唯花と神崎親子が長い間おしゃべりをしていた。神崎航から電話がかかってこなかったら、きっと彼女たちは帰ると言わなかっただろう。唯花は彼女たちがホテルを出て、車に乗り、去って行くのを見届けてから、自分の車に向かった。しかし、振り返った時、ホテルから出てくる大勢の人の姿を見た。その中には彼女がよく知っている二人がいた。それは夫の理仁と義弟の辰巳だった。もう一人も見たことがあるようだが、はっきりとは覚えていなかった。前にカフェ・ルナカルドで理仁と一緒にいたのを見たことがある。彼らはおそらくお得意様を招待していたのだろう。その一行の中に何人か唯花が一度も会ったことのない人たちがいたからだ。そして、彼らの後ろにいる背の高い黒い服の男たちは、一体ボディーガードなのか、それとも結城グループの社員なのか。理仁は最初妻がそこにいるのに気づかなかった。するとボディーガードが先に気づいた。彼らは主人の安
唯月の涙がどっと溢れてきた。彼女の母親は実の姉が彼女をずっと諦めず捜し続けていることを知ることはないのだ。母親は姉と再会するのを待つことなく亡くなった。「唯花、神崎夫人に付き添ってあげていて。私は陽の様子を見に帰るわ」唯月は無理やり痛む心を押さえ込み、妹にそう言い残してすぐに電話を切った。そして、こらえ切れずその場に崩れ顔を手を覆って泣いた。通りすがりの人たちの中には、彼女を見ても誰も彼女を心配して声をかける者はいなかった。カフェの店長はそれを見て、彼女にパソコンを貸した時に離婚協議書を印刷していたのを知っていたので離婚のせいで彼女が辛くなり泣いているのだと思い、ティッシュを持ってやって来た。「あの、これを」店長は唯月の肩をぽんと叩いた。唯月が顔をあげた時、彼女はティッシュを唯月に差し出して慰めの言葉をかけた。「旦那さんの気持は離れていってしまったのでしたら、もう心に留めておかないで。彼のことを忘れればあなた自身のことも楽にしてあげられますよ。あなたも新しい人生をスタートさせられます。お辛いのでしたら、泣いて心の中にある苦しみを全部吐き出したらきっとよくなりますよ」「店長さん、ありがとうございます」唯月は立ち上がり、ティッシュを受け取って涙を拭きとり、嗚咽交じりの声で言った。「暴力を振るって不倫するケチな男と別れても後悔なんかありません。旦那のせいで泣いてるんじゃないんです。母のことを思い出しちゃって。母は十五年前に交通事故で両親とも亡くなったんです」店長は同情して彼女の肩をまたぽんぽんと叩いた。可哀想な人だ。人によっては5、60歳になっても両親は健在で、人によっては幼くして両親を失うのだから。大人になって、両親に孝行することができないのを思うとその悔しさと辛さは、それを経験した人でないとわからないのだ。「店長さん、私なら大丈夫です。もう行きます。子供が家で私を待っていますから」「お気を強くもたれてくださいね。雨の後はかならず太陽が顔を出します。頑張ってください」知らない人から慰められて、唯月は心が温かくなった。この世界には、やはり良い人もたくさんいるのだ。店長にお礼を言って、唯月はバイクまで戻り、帰ろうとした。「こんにちは」この時、力強く豪快な聞きなれた声が聞こえてきた。
唯月は彼の話を聞き、今すぐ手続きに行けないのを残念に思ったが、あと一日の辛抱だと思い、それを受け入れた。彼女は二人分のサインを終えた離婚協議書を俊介に渡して言った。「見てみて、問題がなければ、あなたもサインして」俊介はその離婚協議書を受け取った。彼女が言ったいくつかの点以外に、離婚した当日に彼女のもとにあるあの証拠を消すこと、それから彼女が個人的に彼に復讐しないことを約束した。俊介は唯月に二千万円ほど渡さなければならず、それが悔しいのと息子の親権を放棄した以外に、他は特に問題はなかった。しかし考えを変えて自分の将来を守ることができるのを思えば、お金などまた稼げばいい話だから、少しくらいの痛みには耐えられると考えた。「サインをしよう」俊介は冷静な様子で言った。「また明日」唯月はひとこと「ええ」と返事した。俊介は少しの間彼女をじっと見つめた後、莉奈の肩に手をまわしてそこから去ろうとした。二歩進み、彼はまた立ち止まって唯月のほうへ振り返って尋ねた。「唯月、あの証拠は誰がお前にやったのか教えてくれないか?」彼がやってきたことをあそこまで細かく調べ上げ、証拠がきっちりと揃っていたので、とても驚かされたのだ。ここまで彼女を助けることができる人間がいることが、彼の度肝を抜かした。俊介は一瞬で脅されてしまったのだ。自分の将来のことを心配しただけでなく、唯月の後ろには何か巨大な後ろ盾があることを考え、彼は唯月が要求してきた離婚条件を受け入れることにしたのだった。「それは重要?私たちが離婚をしたら、あれはあなたに渡して、コピーも残さないって保証するわ」俊介は彼女がどうしても口を割らないので、仕方なく、再び莉奈の肩を抱き去っていった。少し進んでから、社長から電話がかかってきた。一体社長が電話で何を言ったのかわからないが、彼は莉奈から離れ、彼女に何かを言ってから、二人が車へ小走りに戻る様子を唯月は見ていた。そしてすぐに車に乗り込み、走り去っていった。唯月はその場で俊介の車が遠ざかっていく方を見つめていた。暫くしてから視線を戻し携帯を取り出して妹に電話をかけた。「唯花」唯月の気持は晴れ晴れとしていて、妹に言った。「俊介と話をつけたわ。彼は私の要求通りに財産分与をするって。私がもらうべきお金はきっちりね。陽の親権も、何
莉奈はここまで言うと、口を尖らせて言った。「私の子供が生まれたら、その子が受ける父親の愛を陽ちゃんに分けたくないわ」それに俊介が今後稼いだお金も一切陽のために使いたくなかった。彼女は、これからの俊介の稼ぎは全て自分と彼とが新しく築いた家庭に、自分と子供に使いたかったのだ。「陽ちゃんは唯月が産んだ子よ。彼女は絶対に一生懸命陽ちゃんを大人になるまで育てるわ。しっかり彼を教育するだろうし、陽ちゃんの成長にも良い影響を与えるでしょう。もしあなたが陽ちゃんの親権を取って、あなたの両親に任せたら、彼らがちゃんと育てられると思う?親世代が子供を育てると甘やかしてしまうわよ。もちろん、あなたが陽ちゃんが大人になって何も成し遂げられない人になってもどうでもいいなら、私が言ったことは聞かなかったことにして。私は、陽ちゃんは母親である唯月と一緒にいたほうが良いと思うだけ。あなたは仕事も忙しいし、陽ちゃんの面倒を見る時間なんてないでしょ?子供を産むならちゃんと面倒を見ないと。心を込めてしっかり教育して、育てていかなきゃ。陽ちゃんが立派に成長しないと、周りから批判されるわよ。もちろんそれは私も同じで、この継母は毒女だなんて言われるのよ。あなたのほうは離婚して新しい女と結婚したせいで、子供への態度が悪くなったとか言われるわ。私が今あなたといることで、もうかなり辛い思いをしているのよ。それなのにこれ以上まだ私を苦しめるつもり?」莉奈の話を聞いて、俊介は思い悩んだ様子で言った。「父さんと母さんには、絶対陽の親権は俺が取るって言っちゃったんだ」陽の親権を放棄するなら、帰った後、両親に顔向けできない。「陽ちゃんはあなたの息子さんよ。別にご両親の子供であるわけじゃないでしょ。だから、決めるのはあなた自身だわ。陽ちゃんの親権を放棄したことで、彼がご両親の孫ではなくなるっていうの?彼らは変わらず陽ちゃんに会いに行っていいし、陽ちゃんだってご両親のことを『おじいちゃん、おばあちゃん』って呼んでくれるわ」俊介は黙ってしまった。彼は確かに陽の面倒を見て教育するような時間はない。莉奈だって唯月のように結婚して仕事を辞めて専業主婦になる気もない。陽を両親のところで世話をしてもらえば、陽は親のいない子供と同じことで、彼の成長には確かにデメリットしかない。彼は今まで息子
俊介は外で待っていたが、店の中の様子をずっと確認していた。唯月がまた発狂して莉奈を殴らないか心配だったのだ。莉奈が出て来たのを見て、彼はやっと安心した。急いで彼女を迎えに行った。「莉奈、あいつ手を出してこなかった?」莉奈は頬を触って言った。「さっき一発叩かれただけで、あなたが出て行った後は手を出してこなかったわよ」その時は俊介も唯月に一発叩かれた。彼は彼女を可哀想だと思い言った。「莉奈、今後は二度とあいつに手出しさせないからな」そして彼はまた尋ねた。「あいつ、莉奈に何を話したんだ?」莉奈は周りを見渡した。彼らは街中にいて人の往来はあるが、誰も彼ら二人には注目していなかった。彼女は俊介が自分を心配して見つめる瞳を見つめ、聞き返した。「俊介、あなたは私に辛い思いをさせないよね?」「俺がそんなことをするわけないだろ。あいつと離婚するのは、君に辛い思いをさせたくないからだよ」俊介は彼女の手を取った。「莉奈、もしかしてあの女、君を怒鳴りつけたのか?今からあいつのところに行ってケリつけてくる」「違うわ」莉奈は店に戻ろうとした俊介の手を引っ張って、小声で言った。「俊介、私、陽ちゃんの継母にはなりたくないわ」俊介は彼女のほうへ振り向いた。「陽のこと可愛いって言ってなかった?陽のことが大好きだから、喜んで一緒にあの子を育ててくれるって」俊介はこの時声を高くしたが、周りの人に見られるのを気にして、また声を低く落として言った。「莉奈、まだ自分の子供もいないのに、他人の子供の継母になるなんて嫌なことだってわかってる。でも陽は俺の息子なんだ。佐々木家の血が流れてる。だから絶対に佐々木家に留めておかないと。安心して。離婚したら陽は両親のところで面倒見てもらうから。うちの父さんも母さんももう了承済なんだ。俺たち二人に何も影響ないよ。俺たちは今まで通り、甘い二人っきりの世界で過ごせるからさ」莉奈は黙った後、また口を開いた。「あなた、私が子供を産めないと思ってるの?私だって自分の子供を産むことができるわ。お腹を痛めて産んだ子供が可愛いのは誰だって同じでしょう。陽ちゃんのことを自分の子供のように見ることなんかできないわ。周りはきっと私のことを悪い継母だって批判してくる。そんな目に私が遭って、あなたは平気なの?あなたのご両親
唯月は笑って言った。「今あの人はあなたに夢中よ。あなたの言う事ならなんだって聞くに決まってる。今から彼と話してきて。陽の親権を放棄すると言ったら、会社に休みをもらって午後私と離婚手続きを終わらせましょうって伝えてちょうだい。あの人が早く独身に戻れば、あなたも早く彼と結婚できるでしょう。スカイ電機の部長夫人になれるわよ。スカイ電機はこの業界の中ではなかなかの会社で将来性もあるし、規模も大きいわ。あなたが部長夫人になったら、会社の中でも高い地位を得られるじゃない。重要なことは、彼は今後ずっとあなたのものになるってこと。彼はあんなにたくさん稼げるんだから、あなたも欲しい物があれば何でも買えるわよ。今までみたいにこそこそする必要もないし、堂々と外でも彼とイチャイチャできる。女性なら誰だって、自分の愛する人と何も憂いなく一緒に過ごしたいと思うものでしょう。俊介はまだ30歳っていう若さなのに、今のような仕事をしているんだから、ビジネス界では成功者と言えるでしょうね。もし、彼を逃したら、今後彼よりも良い男性が見つからないかもしれない。成瀬さん、あなたと俊介の幸せのためにも上手に彼を言いくるめないとだめだわ」莉奈は少し考えてから言った。「ちょっとパソコンを借りてあなた達の離婚協議書を書いてちょうだい。あなた達がサインして押印したら、後で市役所に行って離婚手続きをするの。私は今から俊介のところに行って、陽ちゃんの親権を諦めるように説得するわ」「それはできるけど、財産分与でちゃんとお金をもらわないと、役所に離婚手続きにはいけないわ。離婚してしまってあなた達が考えを変えるとも限らないでしょ?」唯月も馬鹿ではない。彼女が佐々木俊介に何の未練もなくなった時から、彼女は一歩も引く気はなかった。自分が損を被らないように、きちんと準備をしておかなければならない。莉奈が携帯を取り出して時間を見てみると、すでに午後二時を回っていた。早く事を進めれば、この日の午後に二人は離婚手続きを終わらせることができる。「ここで待っていて。いえ、先にちょっとパソコンを借りて離婚協議書を作って印刷しておいてちょうだい。今から俊介を説得してくるから」莉奈もこれ以上俊介と唯月が離婚のことでダラダラと続けていたら、俊介となかなか結婚できないと焦っていたのだ。さらに唯月に証拠